【ある博士の研究日誌】
苦節、十年!あっという間の十年だった。人間とはこんなに早く足腰が弱くなるのか。こんなに早く頭から毛が抜けるのか。だがしかしたかし、振り返るとやはり壮絶な十年だ。この儂の生涯において、これほど忘れられない日々はないだろう。いや待ってくれ。忘れるも何も、儂の歳であと幾つ生きられるのだろうか。ちょいと想像するだけで震えるわ。嗚呼。こんなにも早く年を取るならば、せめて若いうちに酒や煙草でも嗜んで、可愛らしい女性をデートに誘っておけばよかった。いや、今からでも遅くないだろうか。ふと儂の口元を涎が滴り落ちかけた。おっと馬鹿なことを考えるな。このタイミングで寿命を縮めるような真似をしてどうする。しかし女性はどうだろう。いいや、駄目だ駄目だ。かつての同年代に声をかけてみたら、どいつもこいつも皺くっちゃくちゃの婆さんではないか。元気すぎて苦労したからといって儂の何倍も早く老けやがって。もっと若作りを頑張ってくれたまえ。いずれにしても老い先短い儂の、最後の望みはこの研究の先にある結果に他ならない。時が流れるのは早いものだ。世代も受け継がれてゆく。この研究の結果を見届けることができるのは、儂の一人娘となるだろう。兎にも角にも、ついにやったのだ。実験成功。儂は感極まって研究室のカーテンを勢いよく開いた。びりぃっと音が響き渡り、かつてカーテンだった布切れは足元に零れ落ちた。何ということでしょう。ま、まぁ良かろう。儂は十年振りに浴びた陽の光を全身で味わった。こんなに清々しい朝はいつ以来だろうか。いや待て。待ってくれ。熱い。熱いぞ。そして眩しい。眼球が溶けてしまいそうだ。無理だ。これ以上は耐えられそうにない。太陽が容赦なく儂の肉体に襲いかかってくる。嗚呼。どうしよう。とりあえず娘を起こしに行こう。彼女に良いニュースと悪いニュースを届けなければならない。実験成功と聞いたらどんな顔をするだろうか。そして破いたカーテンはどう言い訳しようか。
 
 
【ある看護師の手帳】
眩しい陽射しが燦々と降り注ぎ、穏やかな色をした空は雲一つなく雄大に澄み渡っています。この遥かな眺めの下、愛すべきシャドライの地は本日も無事に快晴の朝を迎えました。その町から少しばかり外れて五百歩ほどの坂道を昇ると、美しいゼキアスの花々が咲き誇り、そこから更にドルゾイ湖の岸辺に沿って歩いていくとマシューダの大樹が見えてきて、その根元にほんの小さな墓石が添えられています。その石の前にそっと新たな花を供えることから、彼女の一日は始まりました。医療器具の詰まった重い鞄を提げ、下ろし立てのシャツとベストを纏う彼女はその小さな石にそっと言葉をかけます。
「おはよう。やっと、この日が来たよ」
まるで家族に語りかけるように彼女は優しく微笑み、やがて嬉々として鞄から取り出した丸縁の眼鏡をかけてみせました。
「勉強のしすぎで目が悪くなっちゃってね、先生が譲ってくれたの」
無論、その石から言葉が返ってくることはありません。何か表情を見せるわけでもありません。それでも彼女は語り続けました。
「先生」私はそっと彼女の背中に声をかけます。「そろそろ、時間ですよ」
振り返った彼女は優しく微笑み、頷きました。立ち上がり、大きく息を吸い込む彼女を見て私も同じように深く息を吸いました。
「よし、行きましょう。先生」
「あの」と彼女は照れ笑いを浮かべます。「やっぱり、先生と呼ばれるのはちょっと」
私も思わず小さく笑い返しました。出逢ってからの十年間、彼女を「モッコちゃん」と呼んできたものですから。無論、私だって慣れることはできません。けれど彼女も大人になって、そして今日、また新たな一歩を進む。その石の下で眠る彼女の友のために選んだ道へと大きな一歩を踏み出すのですから、こんなに嬉しいことはありません。
「何言ってるんですか」彼女の肩に手を置く。「町の皆が待ってますよ、新しい先生を」
 
 
【ある保安官の捜査報告書】
その日の朝は、保安官ラグワームの小言から始まった。
「そういえば今日だったな」読んでいた新聞を畳みながら、彼は口を開いた。「新しい先生の初回診」
「そうでありますか」この国に流れてきて半年、漸く言葉に少しばかり慣れてきた私は辿々しく応えた。
「今度は若い姉ちゃんだって話じゃねぇか。本当に大丈夫なのかね」
血を見ただけで卒倒するんじゃないか。俺がガキの頃の先生は偉い人でな。そこからラグワームの言葉は私一人に対して怒涛の勢いで放たれたが、正直どうでもいいから割愛する。しかしそんな彼の言葉の濁流を聞いていたその時、慌てて一人の少女が事務所に駆け込んできた。ぜいぜいと息を荒げながら血相を変えて縋るようにこちらに目を向ける。
「シオンちゃんじゃねぇか。そんなに慌ててどうしたんだい」
ラグワームは机の上にだらしなく並べられた酒瓶を隠し、彼女に声をかけた。シオンと呼ばれる彼女は、アクロメア漁港の料亭レムスの一人娘。まだ幼いというのに、シェフとして忙しい母をよく手伝って皿を運び、掃除もする健気な少女だ。私もこの国に来たばかりの頃から料亭レムスは度々ラグワームと共に昼飯をご馳走になったもので、すっかり顔馴染みであった。
「大変なの」シオンは言った。「ママの店が、火事なの」
 
 
【ある酪農家からの手紙】
そりゃあ驚いたよ。何たって、本当にいつもと変わらない朝だったんだ。いつものようにキャロスの乳を搾ってはバケツに溜めて、そいつをミナモに預けては精製が終わった瓶を籠に詰め込んで運ぶ。いつもと変わらない、平和な朝だったんだよ。まさかお得意先で火事が起こるなんて思いも寄らなかったんだよ。慌てて自転車を放り出して、人だかりを潜り抜けて見たら、いつもの慣れ親しんだ扉が焦げて、モクモクと黒い煙が上がってやがる。その扉に向かって必死に女がひとり水をぶっかけているのが見えて、急いで近づいたら彼女はもう汗でびっしょりと濡れて肩で息をしていたんだ。
「レムスさん。これは一体どうしたんだよ」
「どうもこうもないさ。客のひとりが油こぼして、吸ってた葉巻を落としちまったんだ」
そうなのか、とうっかり安心したよ。レムスさんは料理の腕は一流だが、すぐに堪忍袋の緒が切れちまうので名が知れてる。何かが気に障って厨房を火の海にしちまったんじゃないかと思っていたもんだから。
「その葉巻吸ってた奴はどこ行ったんだ」
「逃げられたよ。火が出た途端に慌てて外へ逃げちまった」
そう言ってレムスがまたバケツに水を運びに行こうとしたもんだから、手伝うよ、とついていったんだ。その時にちょうど 小さな女の子が保安官ふたりを連れて、こっちに駆けつけてきた。シオンちゃんだ。うちのミナモと仲が良く、しょっちゅう我が家へ遊びに来てくれる元気の良い女の子。
「ママ大丈夫?怪我してない?」シオンちゃんはそのままレムスさんに抱きついた。
「あたしは大丈夫だよ。お巡りさん呼んできてくれたんだね」
どうも、といつも通り無愛想な保安官ラグワームとその後輩が会釈した。後輩の方は確かこっちに派遣されてきてまだ半年、凛々しい顔立ちの若者だ。名前は何と言ったっけ。そうだ、サンゴ。彼の名前は保安官サンゴだ。初めて料亭で会った時、丁寧に名乗って挨拶してくれたのを思い出した。
「我々も手伝いましょう。おい、サンゴ。お前も井戸から水を汲んでこい」
先輩にそう指示された彼はすぐさま井戸へ向かおうとしたが、直後にその場で立ち止まった。
「おい、どうした」ラグワームが怒鳴ると、サンゴはこちらを振り返った。
「何か」と彼はまだ慣れない言葉を詰まりながら少しずつ放つ。「何か、聞こえませんか」
耳を澄ますと確かにわんわんと喚くような、甲高い声が聞こえてきたものだから、ぎょっとして全員一斉に振り返った。声は火事が起きている料亭の二階の方から聞こえてきたのだ。誰かが燃え盛る炎の中に閉じ込められている。
「レムスさん、二階に誰か住まわせていたのかい」
「知らないよ。あそこは倉庫としてしか使ってないから」
ともかく急がないと取り返しのつかないことになる。どこの誰が忍び込んだのかは分からないが、助けてやらないと。そうだ、水を浴びて飛びこもう。そう思ったその時だった。すぐ隣を誰かが物凄い勢いで駆け抜けていった。水を浴びてきたばかりの濡れた格好で、彼女は料亭の焦げた扉に向かって迷いなく突っ込み、その先の火の海へと飛び入った。大した度胸だなぁと感心していると、彼女を追いかけてきたのか、もうひとりの女性が青褪めた表情で料亭に向かって「先生!」と叫んだ。そうか、と思わず目を丸くしたよ。その勇敢な女性は、この町の新しいお医者さんだったんだ。
 
 
【ある泥棒の証言】
魔が差した、って言うんでしょうか。こういうのを、魔が差した、って言うんでしょうね。最初はただお腹がすいただけなんです。何日も飲まず食わずで過ごすと人間って本当にボーッとしちゃうんですね。気がついたらどこかの建物の屋根にへばりついて寝てました。それで朝起きたら、何だか良い匂いがしたんです。ステーキの香ばしい匂い。スープの温もり。バリバリ、とパンに齧りつく音。堪らなくなった私は思いっきり窓をノックしたんです。でも誰も応えてくれなくて、鍵が開いてもんだから入っちゃったんですよ。そこでやっと思い出したんです。あ、私って今、屋根にいたんだった。私はただご飯を恵んでほしかっただけなのに、無意識に二階から忍び込んじゃってたんですよ。困りました。もちろんこのまま見つかって泥棒扱いされるのも困ると思ったんです。だけどそれ以上に困ったのは、その二階には食べ物がいっぱいだったんです。ハムにお魚にベーコンに豆、野菜からフルーツにチーズまで沢山の食べ物に囲まれた私はもう我慢ができませんでした。ごめんなさい、ごめんなさい。そう思いながら戴きました。美味しかったです。そりゃあ美味しかったですよ。ほっぺが落ちるほど美味しくて、泣きながらムシャムシャ食べてたんです。そのムシャムシャに集中しすぎて、周りのメラメラに気づけなかったんです。天罰が下った、って言うんでしょうか。こういうのを、天罰が下った、って言うんでしょうね。私はただステーキを食べたくて入ったのに、逆にステーキになりかけたんです。深く反省してます。本当に反省してます。お巡りさん、まだ喋らないといけないんですか。こうやって喋れば、カツ丼を食べさせてくれるのが定番じゃないんですか。違うんですか。そうですか。先生が私を助け出してくれたのは、それからちょっとだけ時間が経った後でした。よく覚えてませんが私の髪の毛がチリチリになってきたくらいなので、大体それくらい後でした。先生は私に何度も何度も「大丈夫?大丈夫?」って声をかけてくれて、そのまま外まで連れ出してくれたんです。綺麗な人ですよね。優しい人ですよね。お巡りさんもあの先生くらい優しくて綺麗だったらいいのに。はい、ごめんなさい。その後、私に水を飲ませてくれたんですけど、おじさんがひとり私にミルクが入った瓶をくれたんです。牧場の人なんですかね。すごく美味しいミルクで、今ではすっかり元気になりました。そういえば火が消えてちょっと落ち着いてから、そのおじさんと先生が何か話してるのを聞きました。「ちょっと診てもらいたい奴がいるんだ」って、そのまま看護師さんも連れて一緒にどこかへ行っちゃって。その後のことは覚えてないです。でも何か食べさせてくれたら思い出すかもしれないですよ。はい、ごめんなさい。
 
 
【ある悪党の自伝】
今これを読んでいるということは、お前もこの俺に惹かれて本を手に取ったんだろう。何せこの自伝が出版された暁には、すべての表紙にこの俺のサインを入れてやるのだ。この本を選んだお前は、この俺に選ばれた。そう、この本をお前が選ぶということを俺が選んでやったのさ。何言ってるのか分からないだと?安心しろ。ちょっと俺もよく分かっていない。ともかく時計の針をあの日の午後に戻そうじゃねぇか。報せを聞きつけた俺は夕焼けに染まるグシルドライの丘で、奴らの前に姿を現した。汚れ一つない、きっちりとした黒服で奴らは俺の出番を心待ちにしていやがった。奴らの中央に踏ん反り返るドルフィン首領の仏頂面が俺をその目に捉え、ゆっくりと口を開いた。
「お前が噂に聞く大悪党ボアか。噂で聞いていたより何倍も若いようだな」
おっとダラダラ世間話に付き合うつもりはないぜ。俺が自慢の愛刀エルメイカを抜くと、奴らも一斉に刀を抜き、銃を手に取った。次々と襲いかかる剣の群れをひらりと躱し、身を翻して弾を避ける。そのまま俺は華麗に奴らの車に飛び乗り、その高級そうに磨かれた屋根にエルメイカを突き立ててやった。途端にドルフィンの表情が変わる。
「おとなしくブツを出しな。お前らが持ってんのは分かってんだよ」
すると案外あっさりと奴らは慌てて車の中からスーツケースを取り出しやがった。ドルフィン本人は面食らったまま先ほどの余裕はどこへやら、口をパクパクさせながら俺を指差している。奴の部下のひとりからそのスーツケースを受け取り、満足しておとなしく帰る…と思ったら大間違いだ。こちらとしてはお前らをこのままタダで帰すわけにはいかねぇんだよ。
「調べはついてんだぞ。今朝お前らが料亭につけた火で、俺の身内が世話になったみたいじゃねぇか」
「な、何の話だ」ドルフィンの奴がやっと喋りやがった。「料亭の火事は、ただの事故だろう。我々は知らんぞ」
おいおい、この野郎。とぼけるつもりか。俺は気が短いことで恐れられる悪党ボア。激しい苛立ちを覚えた俺が奴らを全員まとめて斬り刻んでやろうとした、その時だった。「待てーい」甲高い声がしたと思いきや、ふいに俺の手元からスーツケースがすり抜け、俺がその行方を目で追うと、そいつは地に足をつけて、わざわざ「とぅっ」とポーズを決めてみせたのだ。何だこのふざけた奴は。
「悪いね」声の主は、女だった。「どうしても、このケースの中身が必要なんだよ」
「それで何をする気だ」俺は舌打ちした。
「え、何するんだろう」え、分からないの。俺は戸惑う。
「あんたらこそ、これで何する気よ」と言葉を返してくる。
「え、何するんだろう」え、分からないの。彼女も戸惑った。
今だ。俺がエルメイカを煌めかせ、突如として現れたその泥棒猫に一閃を入れようとしたその時、奴はそんな俺の頭に手を乗せ、ひょいと躱しやがった。
「なかなか良い身のこなしじゃねぇか」俺はエルメイカの峰を肩に乗せ、その女を睨みつける。「お前、何者だ」
あたし?と飄々とした声で「あたしはマリナ」と彼女はニヤリと笑った。「マリナでいいよ」