深い、深い、海の底。どこに目を向けても、群青に覆われた闇の世界が広がっている。一筋の光が、その闇を唐突に引き裂く。棲み処としていた生き物たちが一斉に群れを成して逃げはじめた。光はやがて鮮血のような紅色に染まり、グツグツと水を煮やし、気を焦がしはじめた。

嫌な予感がする。長い黒髪を垂らした少女が、赤い閃光の上を漂っていた。眼前に広がる異様な光景に思わず少女は息を呑んだ。まるでこの世の終わりを見ているような、そんな悪寒がする。

ふいに背後に気配を感じた。少女は慌てて腰から武器を取り出し、構える。しかし振り向いてみると、そこにいたのはユメガメだった。大きな甲羅を背負って精一杯の速さで泳いでいる。決して害はない生き物だ、と以前尊敬していた人物から教わった。少女は武器を再び腰に納めた。

「行きなさい。光に呑み込まれてしまう」

少女はそう声をかけたが、それでもユメガメの速さは変わらない。必死に水面まで逃れようと抗っているが、このままでは間に合わない。少女は眉間に皺を寄せた。天命だ。この世は弱肉強食。強い者だけが生き残る。そう自分に言い聞かせた。私は任務に集中しなければ。

その時、激しい轟音が響き渡り、閃光の源から勢いよく、禍々しく赤い濁流が湧き上がるのを見た。まずい。無意識に体が動いた。ユメガメの甲羅を蹴り上げる。硬い。足に激痛を覚えながら、少女はユメガメを押して必死に赤い濁流から逃れた。間一髪、呑み込まれることはなかったが、濁流はさらに上へ上へ昇っていく。

「炎の滝」

思わず少女は呟く。まるで下から上に流れ落ちていくように、辺りを紅に染めていく。熱い。灼熱。体が溶けてしまいそうだ。少女の手足に力が入らなくなる。まずい。息苦しい。動けない体を漂わせながら、少女は狼狽する。ありえない。この夢海原で息ができないだなんて。こんなことは初めてだ。頭に浮かんだ言葉は、やはり天命だ。ここで私は終わる。何も果たせないまま。せめて、と少女は思いを巡らせた。せめて最期は、あの人のことを想いながら逝きたい。今日まで誰よりも慕い続けてきた、あの人を。

 

 

潜水艦ひつじ、第一艦橋。派手な色の着物と白いエプロンを纏った女性が足早に駆け込む。窓の外にはかつて見たことのないほど炎で覆われた《夢海原》が広がる。熱い。禍々しい熱気が艦内まで伝わってくる。

「またあの暴れん坊ですかね」と背後から飄々とした声がする。振り返ると、不格好に生えた髪を掻きむしりながら青年が苦笑いを浮かべていた。「とりあえず、この場は離れた方が賢明でしょ」

「このままじゃ海が枯れてしまうわ」

「マクーラ料理長。あなたが心配すんのは今夜の晩御飯。海の心配は、おいらの管轄ですよ」

「だけど」慌ててマクーラが言葉を返す。「ナイトちゃんが、まだ戻ってこないの」

じゃじゃ馬め、と舌打ちする青年。直後、巨大な轟音が響き渡り、同時に船が大きく揺れた。どうやら噴火はさらに激しさを増しているらしい。もはや一刻の猶予もない。本来ならば、このまま退却するところだが、それはつまり、この船の副長を、大事な仲間を見殺しにすることになる。

「こちらアルガリ航海士」艦内無線を接続状態にして、青年が声を放つ。「キャプテン。至急、第一艦橋へ」

しかし艦長は姿を現すどころか応答すらない。嫌な予感がする。マクーラは思わず窓にしがみついた。眼前にはより一層激しく炎の滝が立ち昇っている。まさか、もう彼は単独で向かっているのではないか。

「アルちゃん」と青年を呼ぶ。「すぐに針路を変えて」

「方向は」

「噴火口」

すかさずマクーラが言うと、アルガリは呆気にとられて鼻を鳴らす。「馬鹿ですか」

 

  

熱い。全身が溶けてしまいそうなほど、熱い。虚ろな目が、少しずつ光景を捉えてゆく。頬に触れた海底の砂が突き刺さるような熱を帯び、少女は思わず飛び起きた。横たわっていたのか。まずい。いつの間に気を失ったのだ。再び武器を構えながら少女は周囲を警戒する。噴火口のすぐそばまで沈んできたらしい。あのユメガメは無事に逃げきっただろうか。炎と煙に包まれて息苦しい。あと少し意識が戻らなかったら確実に窒息していたに違いない。この海で「息ができない」というのは明らかに異常な事態だ。

刹那、少女は脇腹に激痛を覚える。何だ。視線を自分の胴体に移すと、足元がない。宙に浮いている。地面に叩きつけられた。思考が追いつかない。少女は動揺しながらも体勢を立て直す。眼前に背の高い影が聳え立っていた。影は片足を上げている。ようやく理解した。こいつは恐るべき速さで現れ、恐るべき強さで私を蹴り飛ばしたのだ。

「まさか、あなたが」と少女は負傷した脇腹を抱えながら声を張る。「紅の荒武者」

影が距離をつめてきて、その姿が少しずつ明らかになっていく。修羅のように恐ろしく笑みを浮かべた顔に、まるで血管が浮き出たような深紅のタトゥーが刻まれている。乱れた長髪を泳がせながら、黒ずくめの大筒を肩に乗せるその男は、我々潜水艦ひつじが追い続けてきた張本人に間違いない。

「俺のこと知ってんのか」と荒武者が言葉を発する。「名乗れよ」

少女は息を呑む。脇腹はまるで抉られたかのように、より一層、痛みが鋭くなってゆく。

「ナイト」息を荒げながら、少女は言う「ナイト副長です」

「立派な名前じゃねぇか」と荒武者は言う。「俺も名乗りたいところだが、あいにく名付け親がいなくてね」

「どうして」とナイトは改めて声を張り上げた。「どうして、この海を破壊しようと」

「理由なんかねぇよ」荒武者は高笑いを上げる。「俺は面白半分で世界をぶっ壊す」

それだけだ、と荒武者が続けると同時にその影がひらりと飛び上がった。来る。ナイトは上空に向けて引き金を引く。甲高い衝撃音と共に、波動が荒武者の胸をめがけて放たれた。直撃だ。そう思った次の瞬間、波動は大筒に跳ね返された。そのまま背後に降り立つ荒武者。不敵な笑みを浮かべた荒武者の鋭い眼光が、ナイトの隙を捉えた。終わりだ。

直後、傷だらけの背中が蒼と紅の光を浴びながら燦然とナイトの眼前に現れた。気づけば肩には彼がいつも羽織っている黒装束がかけられている。ナイトは思わず心がすとん、と落ち着く。

「駄目じゃないか、ナイトちゃん」眼帯をかけた男の横顔が振り向いてくる。「単独行動は危険だよ」

「キ」とナイトは言葉に詰まり、咄嗟に赤らめた顔をそむけた。「キャプテンこそ」

キャプテンと呼ばれるその男はいつものように、まるで子供のように並びの悪い歯を見せて微笑む。

「ようやく会えたな。あんたが潜水艦ひつじの」

挑発するような高い声を出す荒武者は、表情が微かに曇っているようだ。交えた刃が、わずかに震える。

「いかにも」とキャプテンは返す。「この俺様が、潜水艦ひつじのキャプテンだ」

轟音と共に、背後でまた新たな火柱が伸びた。周囲が煙に包まれてゆく。ナイトの手を引いて、キャプテンは一歩ずつ煙の中へと溶け込んでゆく。

「逃げるのかよ」

「逃げやしないさ。男の勝負は万全の状態でやりたいだろ」

「面白ぇ」荒武者は頬を歪めた。「俺はいつでも待ってるぜ」

そのまま視界は煙に包まれ、四方は闇の中に紛れていく。あっという間に荒武者の姿は見えなくなった。

「帰投するよ」

肩を貸そうと腰を屈めるキャプテンに「待ってください」とナイトは慌てて言った。「人の気配がします」

また敵かもしれない、とナイトが武器を構え直すとその手をキャプテンが阻んだ。何者かが、ゆっくりと歩み寄ってくるのが分かる。この状況でなぜ丸腰でいられるのだ。ナイトはしきりにキャプテンの背中を見る。

だがその不安は必要ないものだった。徐々に明らかになってきたその姿は、弱々しく狼狽している少年だ。

「迷子さんかな、迷子さんかな」とキャプテンは上機嫌に尋ねる。「迷える子羊ちゃんかな」

しかし少年は応えない。それどころか、ここはどこだ、と言わんばかりに目を泳がせて慌てている。どうやら彼は『現実世界』の住人のようだ。まるで現状を理解できず、この光景を警戒しているのが見て取れる。

「噴火の影響で、こちらの世界に巻き込まれたんでしょうか」

「うちで引き取ろう」

キャプテンは迷わずそう返した。慌てて「本気ですか」とナイトが声をかける。ただちに次の作戦に向けて動かなければならない。非戦闘員は足手まといになる。

「ちょうど男手が欲しいと思ってたんだよ」とキャプテンが微笑む。「坊や、名前は何て言うんだい?」

すると少年は、恐る恐る「メ」と口を開いた。「メリノ。僕は、メリノ、といいます」


どれほど歩いただろうか。女は疲れ果て、地面に伏していた。天を仰ぐと水面から溢れる光がこの世界の空を覆っている。あの光はどこから注がれているのだろう。腰に差した愛刀を抜いて、その光に照らしてみる。錆だらけの刃は、もはやいつ朽ちてもおかしくはない。

この世界に来てからというもの、彼女が経験してきたことは波乱の連続だった。ある日突然、ここへ迷い込み、わけも分からないまま危うくユメクジラの餌になるところだった。間一髪、現れた人物に救われ、彼と冒険を繰り広げるが、結局それはその男にとって女遊びの一環に過ぎず、再び独りとなった。

その男から譲り受けた剣を今でも携えるのは、やはり未練がそうさせているのか。女は首を振ってその疑問を払いのける。おもむろに立ち上がり、再び次の一歩を踏み出す。進もう。この先に何が待っていようと、独りで突き進んでみせる

 

 

独りは、恐ろしかった。少年メリノは狼狽を抑えることができなかった。それでも突如として目の前に現れた彼らに案内されるがまま、潜水艦の中を歩いている。裸足で踏みつける床には金属のような触感はなく、むしろ温かく、まるで真夏の芝生を歩いているような、そんな心地良さすら感じる。それでいて整った廊下には塵ひとつ落ちていない。不思議な空間だ。この世界はどうやら夢の中に存在しているらしい。それだけは理解することができた。

「何も心配することはないさ」

キャプテン、と名乗るその男がこちらの顔を覗き込んだ。左目を覆っている眼帯はかすかに血の香りがするが、屈託のない笑みがやけに眩しく、その香りを打ち消していた。

「君がただ『迷い込んだ』だけなら、じきに目が覚めて、元の世界に還るだろう」

「そうでなかったら」とその隣にいる、ナイト副長、と呼ばれる少女が口を挟む。彼女を一目見た時にメリノはその美貌に驚嘆した。同時に、彼女の一挙一動を思わず目で追ってしまい、そのたびに慌てて視線を逸らした。端的に言えば、一目惚れとはこのような体験を言うのだろう。

「そうでなかったら、彼も『選ばれた』ということですか」

彼女の言葉に対して、キャプテンは何も返さず、ただ微笑んでいた。すると目的地に着いたのか、ふたりが立ち止まり、慌ててメリノも足を止めた。どうやら何らかの一室の扉のようだった。見るからに頑丈そうな鉄壁に、古い国の言葉だろうか、見たことのない文字が刻まれている。思い返せば、この道中でもさまざまな扉に、さまざまな文字が刻まれていた。これがこの世界における言語なのかもしれない。

扉は内側に開いて、そこにひとりの男が立っていた。

「うっす」と男はキャプテンに対して、くだけた挨拶をする。「お帰りなさいまし。ご無事で何より」

「ただいま、アルガリ航海士」

キャプテンはまた、にこりと笑ってそう返した。アルガリ航海士、と呼ばれるその男はモジャモジャに生えた髪を掻き乱しながら、何を食んでいるのか執拗にクチャクチャと音を立てている。この船の乗組員としては明らかにふたりとはタイプが真逆のようだ。

彼が佇むその部屋は、どうやら仕事場のようだった。壁一面、そして床にまで海図らしき古紙がびっしりと貼られている。さしずめ航海室といったところか。

「そいつですか」とおもむろにアルガリ航海士はメリノを指差した。「次の新入り候補は」

どうも歓迎される空気ではない、ということはメリノ自身も察していた。こちらとしても未知の領域に連れ込まれて状況把握に困ってはいるが、彼らとしてもこんな自分をどう扱えばいいのか困っているに違いない。

「『機関長』がどこにいるか知りませんか」

ナイト副長が尋ねるとアルガリ航海士は、さあね、と首を傾げた。どうやらこの船にはまだ『機関長』という職を持った人物がいるらしい。そもそも今のところ確認できる乗組員は、その『機関長』を含めても5人しかいないが、そんな少人数でこの巨大な潜水艦を機能させているのか。メリノは動揺を隠しきれない。

「あいつがどうかしたのかい?」

「マクーラさんに聞いても分からない、との事で」

マクーラ、というのは先刻この潜水艦に招き入れられた際に最初に遭遇した人物だった。マクーラ料理長、と呼ばれるその女性は艦長と副長が戻ってくるや否や激しく叱咤した。どうやら彼らの危険な単独行動に対して強く注意したらしい。彼らもまた大人しくその注意を受けとめていた。怒りを露わにした表情は羅刹のように恐ろしいが、普段は優しく気丈な女性なのだろう。まるでこの潜水艦における母のような存在感を見せていた。

「どうせまた『聖なる泉』の調査だろ」

どいつもこいつも自由だね、とアルガリ航海士は鼻で笑う。また新しい言葉が出てきた。もはやメリノは目が回りそうだった。『聖なる泉』というのは何のことだろうか。どうやらこの世界における特定の場所を示す言葉であるのは間違いないが。

「突然で申し訳ないが」とキャプテンが、メリノの肩に手を置いた。「君に彼の教育を頼みたい」

アルガリ航海士が口に含みかけた紅茶を噴き出す。メリノもまた、それほどの衝撃だった。彼とはまだ会って数分も経っていないが、その言動や外見からまともな人物ではないことは容易に察することができる。

「ちょっと」アルガリ航海士は咳き込みながら声を張り上げた。「冗談じゃないっすよ。なんでおいらが」

こちらとしても願い下げだ、と内心でメリノは彼に唾を吐いたが同時に、彼の一人称は『おいら』なのか、と思わず二度見する。

「君は、この船で誰よりもこの海について詳しい。頼んだよ」

キャプテンがそう言い残して立ち去るとナイト副長も、よろしくお願いします、と言って後に続いた。

「いや、キャプテン」と慌ててアルガリ航海士は呼び止めようとするが、足元の海図で滑って転倒してしまう。どこか強打したのか苦悶の表情を浮かべながらメリノに視線を向けた。

「よ」とメリノは言葉に詰まり、頬が引きつった。「よろしくお願いします」

 

 

轟音が響き渡り、女は足を止めた。遠くで炎が上がっている。この海底が赤く染まる光景など見たことがない。いったい何が起こったのだろう。思わず刀の鞘を握り締める。何か巨大な脅威が現れたのかもしれない。ふいに地面が揺れるのを感じた。大きな地響き。しかしこの震動は、どうやらあの炎によるものではないことは分かった。女はゆっくりと振り向いた。震えはその背後から伝わってきたのだ。恐る恐る、女は視線を向ける。

船だ。逆様に浮遊する、巨大な船だ。黒い旗に怪物の髑髏が刻まれた巨大な船が、まるで鏡に映っているかのように天と地を逆にして動いている。女はすぐに理解した。かつて、あの人から教わったことがある。海賊だ。この夢海原を支配しようとする海賊バクの船だ。

「驚いているのか」

上ずった声が、ふいに耳元に囁いた。咄嗟に女は身を翻してその声の主に剣の鋒を向ける。いつの間に背後を取られた。

「無理もない。誰もがあの船に驚き、畏れを抱く」

声の主は整えた白髪に煌びやかな衣を纏った女だった。顔には黒々と獣や蟲の入れ墨が刻まれ、不気味に嗤っている。

「畏れ」女は挑発するように微笑み返した。「生憎、そんなものは持ち合わせてないよ」

「はて、どうだか」と白髪の女は刹那、高々と飛び上がった。隙だらけだ、と刀を振り翳すとその刀の峰の上に白髪の女は降り立った。何だこいつは。身軽すぎる。しかし驚愕する余裕などなかった。白髪の女は腰を振りかぶった勢いで、こちらの顔面に蹴りを入れてきた。重い一撃だ。くらり、と視界が揺れた直後に次の一発が腹に入った。激痛と嘔吐感で前のめりになりそうになるが体勢を整えて間合いを取る。

「若き剣士よ。名は何という」

白髪の女の問いに、彼女は「ヘブリジアン」と名乗った。この世界に迷い込んだ時、あの人が与えてくれた名だ。すると白髪の女はその名を聞いて、わずかだが表情が曇ったように見えた。そしてまた、にやりと嗤ってみせる。

「いいのかい、ひとりで出てきちゃって」強がるようにヘブリジアンは続ける。「見たところ、あの海賊の親玉のようだけど」

「私が親玉だと」白髪の女が、かっと目を見開いた。「恐れ多いぞ」

何だ違うのか、とヘブリジアンは嘲笑を浮かべながら内心で少しばかり安堵していた。海賊の船長という実力者ならともかく、その下っ端程度なら、こちらにまだ勝機はあるだろう。

「安堵したな」と見透かしたように白髪の女は言う。「浅はかだ」

直後、ふと気づくと敵に向けていたはずの刀が、自らの首筋に当たっている。握っているのは白髪の女だ。一瞬だ。一瞬で刀を奪われたのだ。ヘブリジアンは冷や汗が噴き出るのを感じた。こいつは身軽で疾く、それでいて強大な力の持ち主だ。

「偉大なる海賊バク様に仕える副長、セントクロイ」と白髪の女は名乗る。「この命をバク様に捧げるべく、誰よりも強く鍛えられたのだ」

勝てるわけもない、と峰で肩を打ち抜かれた。激痛。ヘブリジアンは思わず声にならない叫びを上げた。腰は抜けて膝をつき、利き腕は感覚を失っている。こちらの世界に迷い込んでからというもの、ここまでの敗北を味わったのは初めてだ。

「どうした」と彼女は痛みを必死に抑え込み、息を荒げながらセントクロイを見上げた。「とどめを、ささないのか」

するとセントクロイは嗤うのをやめ、静かに見つめ返してきた。

「その命、我々が拾ってやる」

背後で何か巨大なものが落とされた。振り返ると、船から錆びついた鎖と共に禍々しい気を放った錨が下ろされている。

「来い、ヘブリジアン。バク様がお待ちだ」

 

 

人は誰しも眠る間に夢を見る。その夢は、この世界では泡として存在しており、ひとつの海で繋がっている。それがこの広大な『夢海原』だ。実にごく稀なケースではあるが、眠る間にこの『夢海原』を見てしまう人もいるらしい。言うなれば彼らはたまたま、この世界に迷い込んでしまったのだ。そして『聖なる泉』というのは、どうやらその夢の泡が生まれてくる地点らしい。

「何書いてんだ」と声がしたので、メリノは本能的に日誌を綴じるが、その声の主がアルガリ航海士だと分かると苦笑した。

「この世界のこと、まだ何も分からないんで。書き残しておきたいなと」

ふーん、とアルガリ航海士は再び前に歩を進めた。メリノはその後に続きながら周囲を見渡した。色とりどりの魚の群れが自由に泳ぎまわり、青い光に照らされて輝いている。なんて美しい光景なんだろう。海底の砂は少し擽ったいが、慣れてくると心地良い。振り返ると巨大な潜水艦ひつじがこちらを見守っている。潜水艦といえば軍事兵器として屈強な外見が一般的だが、この潜水艦ひつじはどこか子供が玩具のブロックで作り上げたような、そんな奇妙な親近感があった。

「アルガリさん」と航海士に声をかける。「これって夢の中ですよね」

「今さら何言ってんだよ」

「ってことは、もし死んだりしたら目が覚めちゃうんですか」

メリノがそう聞くと、彼は少しばかり黙った。そして「まあ大抵そうだわな」と小さく返す。どうやら、そうではない人間もいるらしい。だとすれば現実世界で目を覚ますことができず、この世界で死んでしまった人間はどうなるのだろうか。

その疑問をアルガリ航海士に投げかけようとしたその時、ふと彼は足を止めた。見上げると夥しい数多の泡が光り輝きながら水面に向かって湧き上がっている。

「ひょっとして、ここが」とメリノは呟いた。

「そうだ」アルガリ航海士は言う。「ここが、聖なる泉だ」

美しい、と感じた。これほどまでに多くの泡が一度に湧き上がるということは、今この瞬間にそれほど多くの夢見る子供が世界中に生まれたということなのだろう。彼らの夢はこの泉から生み出され、それぞれの成長と共に大きく育ち、あるいは静かに海に溶けていく。しかし少なくとも今、目の前でまた新たな未来ある生命が誕生している。メリノは高揚感を覚えた。

「よぉ、機関長」と前方に立ち尽くし背中を向けた男にアルガリが声をかけた。「皆が探してたぜ」

機関長がゆるりと振り向く。黒縁の眼鏡の奥で鋭く凍てついた視線がこちらを捉えた。メリノは思わず息を呑んだ。彼は武器のようなものを所持していないが、しかし今にも斬りつけられそうな、そんな気迫がある。

「地質を調査しておく必要があります。このままではあの海底火山の濁流に埋まる可能性が…」

「その説明はもう耳にタコだっての」とアルガリは面倒くさげに言葉を発する。

「ナイト副長が『紅の荒武者』と接触した。じきに海賊も動き出す。ここも危険だ」

どうやら今この世界に迷い込んでいるのは、メリノひとりではないようだ。もうひとりは『紅の荒武者』と呼ばれ、彼はここが夢の世界であることを好都合に、自由奔放に暴れまわっているらしい。その破壊衝動が海底に影響を及ぼして、火山の噴火を引き起こしたというのだ。それほどの強大な力を持った人間がいるということがメリノには信じられなかったが、ここがまず夢の世界であるという事実が奇しくも説得力を与えていた。

「なぁ」とアルガリがさらに言葉を続けた。「そうやって調べてても、ムーアは帰ってこねぇよ」

機関長の表情がわずかに曇る。メリノは首を傾げた。ムーア。新たに聞く名前だ。彼らにとって縁の深い人物のようだが『帰ってこない』というのは、どういうことだろう。そのムーアという人物はどこへ行ったのだろうか。

「帰投しようぜ」とアルガリは機関長の肩に手を置き、その名を呼んだ。「ロメルデール機関長」


一歩、また一歩と踏み込む。そのたびに足元はふわりふわりと歪み、その波紋は空間全体へと伝わってゆく。ヘブリジアンの冷や汗は止まらない。今、自分が立っている場所は本当に存在するのだろうか。幻を見せられているとしても、どうして足元に冷たい質感が伝わってくるのだろうか。まるで先の見えない泥沼の底を歩いているような不愉快な気分だ。
「さぁ、こちらへ」
声が響き、ヘブリジアンは反射的に顔を上げた。遠くでセントクロイが手招きしている。彼女が視線を移した先には、身の丈が人喰い鮫ほどの巨大な扉が立ちはだかっていた。中央に刻まれた髑髏の印は禍々しい邪気を放っている。どうやら、この扉の向こうに彼女の主君がいるようだ。
「この先で何が待ってる」とヘブリジアンは扉を見上げた。「まさか、死、とか言わないよね」
セントクロイは何も応えず、ただ妖しく微笑んでいる。不気味な女だ。その黒く濁りきった瞳は何もかもを見透かしているようで、しかし同時にこの世の何者も見つめていないように感じる。あるいは彼女もまた、この世界にすら存在しない虚像なのだろうか。
扉に触れて、ぐっと体重をかける。鬼の悲鳴のような轟音を立てながら少しずつ押し開けられた扉の先は、闇に包まれて何も見えない。しかし肌で感じることができる。ここは入ってはいけない。ここから先に足を踏み入れたら、もう戻ってくることはできない。鋭く凍てついた空気が全身の肌に染みついてきた、その時だった。
「剣をおさめろ」
声が聞こえた。耳元に、ふいにその声は聞こえた。悪寒。動悸。恐怖。振り返るが、そこには誰一人いない。再び前に視線の戻すと、いつの間にかセントクロイが闇の奥深くまで先に歩みを進めている。違う。今の声は、彼女のものではない。
「聞こえなかったか」再びその声がした。思わず咄嗟に耳を覆うが、それでも声は頭に響き渡ってきた。「剣をおさめろと言っている」
「剣をおさめなさい、ヘブリジアン」違う声がした。瞑っていた目を開けると、声の主はセントクロイだ。「その刃が放つ光、バク様には毒だ」
汗が止まらず、息は上がっている。こんな感覚は初めてだ。バク。この夢海原を、この世界を支配しようと暗躍する最強の海賊。闇に溶け込んではいるが、彼はすぐそばでこちらを見つめている。抵抗は無駄だ。否、抵抗してはいけない。それほどの絶望感がヘブリジアンを包んでいた。恐る恐る、静かに、剣の鋒から鞘におさめていく。
「その剣、どこで手に入れた」
バクの声が低く轟いてくる。息苦しい。彼はまだ指一本触れてきてないはずだ。しかし何だ、この首を麻縄で縛られた感覚は。
「この海に迷い込んだ時、ひとりの男から譲り受けたと」セントクロイが代わりに言葉を返す。しかし「恐らく、ひつじの」と続けた言葉はふいに遮られた。見ると彼女の体が宙に浮いている。ヘブリジアンは理解した。締め上げられている。彼女は今、バクの手で首を締め上げられているのだ。そこに姿はないが、しかしバクは確かに彼女の喉をひねり潰そうとしている。
「誰がお前に応えろと言った、副長」
「も」とセントクロイの弱々しい声が聞こえた。「申し訳、ありま、せん」
ヘブリジアンは驚愕する。彼女とはまだ出会ったばかりだ。しかし少なくとも、この世界において彼女ほどの猛者はいない。先刻の手合わせでそれは明白だった。そんな彼女を、いとも容易く、蟲を殺すように追いつめるバク。その強さは果たして計り知ることもできない。
「なるほど」再びバクの声が全身に響く。「お前が新たな『ヘブリジアン』というわけか」
突然の言葉に、彼女は目を丸くした。どうしてその名を知っている。そう口にしようとしたその時、血の味を感じた。喉を封じられている。喋ることができない。
「逃げ道を与えるつもりはない」声は一層、闇の中に轟いた。「お前の命、この私が預かる」
 
 
「それでは」ナイト副長が口火を切った。「作戦会議をはじめます」
先ほどまで船の外に広がる深海の景色を映し出していた窓は白い膜に覆われ、スクリーンのように海図を浮かび上がらせた。中央には赤い点が記され、その西と東にそれぞれ独特な刻印が描かれている。メリノの隣にいたアルガリ航海士が席を立ち、ナイト副長の隣へと歩み寄る。豪放磊落とした性格の彼も仕事はきっちりとこなすようだ。
敵は現在、ポセイドン水流の地点にいると推測されます」
「間違いないんですか」すかさずロメルデール機関長が挟み、メリノは思わず首を引っ込ませた。どうも彼が喋ると空気が張り詰めたように感じる。低く冷たいその声は、遠い昔に感情を捨ててきたかのようだ。
「強力なエネルギー反応が、紅の荒武者に接近しています」アルガリが答える。「連中の目的は、間違いなく新戦力の獲得です」
「ありえないわ」とマクーラ料理長が口を挟み、メリノを指差す。「彼を発見した時点で、海賊たちは渦潮の神殿にいたはずよ」
「確かに」ナイトが続ける。「仮に動いたとしても、これまでと比べて移動速度があまりに早すぎます」
「その点は、今日までそちらの機関長が何度も提唱してくださったでしょう」
頬を指で掻きながら、アルガリはロメルデールに視線を向けた。僅かな沈黙。キャプテンもまた口を開かず、静かに機関長に方へと目を向けた。ロメルデール機関長は、ゆっくりと立ち上がり、言う。
「我々は夢海原に生きることであらゆる力を身につけました。この世界では、よりイメージを膨らませ、精神の長けた者が強者となります。海賊バクはその分野における天才、否、もはや神の領域に達しています」
「あの船が生きている」キャプテンがようやく口を開く。いつになく険しい表情だ。「そう言いたいのかい」
「彼が操る船は、バクの分身。そう言っても過言ではありません」
ロメルデールのその言葉の直後、アルガリはわざとらしく咳払いした。
「あまり喋りすぎてもらっちゃ困りますよ。作戦会議は、航海士の時間だ」
機関長の凍てついた目がアルガリを捉え、メリノは息を呑む。しかしアルガリの視線もまた揺るがず、落ち着いた声を出す。
「やめろよ」その声は少し、哀しげにも聞こえた。「敵の話で、目を輝かせるな」
 
 
「かつて、この世界には三人の英雄がいた」
厨房の皿洗いを手伝っていた時、ふいに彼女は沈黙を破った。フライパンの上ではユメマグロのステーキが焼き上がっている。旨そうだ、とメリノは慌てて垂れかけた涎を啜る。見るとマクーラ料理長の横顔はいつも見せる明るいものではなかった。
「ひとりは平和を愛し、ひとりは戦いを愛した。そして、もうひとりはその両方を」彼女はまるでその歴史を目撃してきたかのように、思い返すように少しずつ話す。「彼らはこの世界に生まれ、そしてこの夢海原に自分たちの家族を、子孫を残した。どんなに時が流れようと、この海を守り続けるために」
メリノは洗いかけの皿を置いて、布巾で手を拭う。自分にはまだまだこの世界がどういうものか分からない。それでも、しっかりと見つめておかなければ後悔しそうな、限りなく透明に近い、しかし確かな予感があった。
「彼らの子孫は今もこの世界に生きている。この世界のために生まれ、この世界のために生き続ける。いつか眠りにつく、その日まで」
思わず首を傾げる。眠りにつく、というのはどういうことだろう。この世界で「死ぬ」ということは、現実世界で目が覚める。つまり帰ることができる、ということではないのか。そこまで思考を巡らせた時、メリノは思わずハッとなった。それを察したのか、マクーラが言葉を続ける。
「夢の世界で生まれた者は、夢の中でしか生きられない。ここで命を落としたら、どこにも帰ることができない」
「じゃあ」メリノは詰まる言葉を必死に引っ張り出した。「じゃあ、その人たちはどうなるんですか」
「死ぬんだよ、文字通り」
ふいに背後から声がして、メリノが思わず、ひっ、と上擦る。振り返ると、アルガリ航海士が武器を片手に頬を膨らましている。その武器はまるで子供が水遊びに使う玩具のようであまり危険性は感じないが、どうやらかなり強烈な威力を誇るらしい。
「新入りのメリノ君よぉ。会議が終わったら、射撃の特訓ってキャプテンに言われてたでしょうが」
どうやら彼らにとってメリノはもう、この船の乗組員になることが決まっているらしい。居場所のない自分にとってはありがたいことだが、とメリノが苦笑を浮かべていると、盛り付けを終えたマクーラ料理長が庇うように間に入った。
「私が皿洗いをお願いしたの。アルちゃんは食堂にお皿運ぶの手伝って」
「冗談じゃないっすよ」の「じょ」をアルガリが言いかけると同時に、彼の頭上までマクーラの鍋が振り下ろされていた。ひっ、とまたメリノは上擦った。
お願い、というマクーラの満面の笑みに恐れをなし、慌ててアルガリはステーキの皿を盆に載せて抱える。
「ほら」とアルガリは少し乱暴にもうひとつの盆をメリノに投げ渡した。「お前はスープを運べよ」
おとなしく頷き、メリノはスープの椀と小鍋を載せ、マクーラに会釈すると、そそくさと食堂に足を進めるアルガリの後に続いた。
「やれやれ、今日もご丁寧に人数分だ」
アルガリがそんなことを呟き、メリノは手元の器の数を確かめる。アルガリ、ナイト、キャプテン、マクーラ、ロメルデール、メリノ。きっちり6人分だ。
「何か、問題でもあるんですか」
「うちの機関長、食わねえんだよ。まったく、一口も」
でしょうね、とメリノは思う。確かにロメルデール機関長が食べ物を頬張る姿は想像できない。
「どうせ、また『ここは夢の中だから、食べ物の味も幻だ』とか言って俺に全部よこすんだよ」アルガリはそう言って「まぁ食べるけどさ」と付け足した。
「あの」とメリノは話題を戻す。「どうしてマクーラさんは、さっきの話を僕にしてくれたんですかね」
するとアルガリは足を止め、いつになく深い溜息を吐いた。触れてはいけなかったのだろうか。メリノは小さく、ごめんなさい、と零した。
「昔な」とアルガリは再び歩みはじめ、慌ててメリノがついていく。「昔、この船の副長が、死んだんだ」
えっ。今度は思わずメリノが立ち止まり、椀の中のスープがこぼれそうになる。
「ナイトじゃねえぞ。あいつがまだお前みたいな新入りだった頃にいたんだ、先代の副長が」
「ひょっとして」と思い浮かんだ言葉が無意識にメリノの口から出る。「それが、ムーアさん」
ムーア。その名前が引っかかっていた。ムーアは帰ってこない。ロメルデール機関長を迎えに行った時、アルガリは確かにそう言った。
「戦士として、かなり優秀だったよ。そして美しかった。そりゃそうだ。英雄の血を受け継いでたんだから」
英雄の血を受け継いでいた。メリノは言葉を反芻する。それはつまり彼女もまた、この世界で命を落とし、目が覚めることのない、帰らぬ人となったということ。
「ロメルデールは、ムーアを心から尊敬していた」とアルガリは言い、否、と少し笑った。「ありゃ惚れてたな。あの堅物の機関長が、惚れてたよ」
メリノもまた少し微笑む。この人は、愉快だ。彼が機関長の話をする時にまるで自分のことのように一喜一憂する。きっと彼自身は強く否定するに違いないが、それでも、それだけで二人の絆の深さが読み取れる。そんな気がしていた。
「でもあの日、夢海原は大きく荒れていた。聖なる泉から数十倍の泡が湧きあがったんだ。ある国の人間が現実を恐れ、一斉に夢の中へ逃げ込んできた」
「何があったんですか」
「聞きたいのか」
アルガリの言葉に、メリノはたじろぐ。いいや、聞きたくはない。思い当たる節はある。民を恐怖させることなど、人間は何度も繰り返している。
「泡の大量発生は、夢海原に大渦をつくった。とんでもない勢いで飛ばされてきた深海の残骸が、この船にも直撃した」そこまで話して、アルガリの表情はより一層曇る。「その時だよ。ムーア副長が、自らキャプテンの盾になって死んだのは」
メリノはぎゅっと目を瞑る。やはり聞くべきではなかった。あれほど明るいキャプテンや彼らの、そんな過去と向き合うのは、つらい。俯くメリノの頭を、ふいにアルガリが叩く。視線を上げると、いつの間にか食堂に着いていた。無人の食堂で、乱雑に置かれたテーブルと椅子がぽつんと主人を待っている。
「まだ揃ってねぇな」
アルガリはそう言って、テーブルに皿を並べはじめた。張りつめた空気の中、彼が置いた皿の隣に椀をひとつずつ置いていく。
「ただ、ひとり」と再びアルガリが言う。「ひとりだけ例外もいたんだ」
例外、とメリノは首を傾げる。
「この世界で生まれ、現実世界でも生きることができた人間。実は存在したらしいんだよ」
「本当ですか」とメリノは思わず身を乗り出した。
「でも奇跡は長く続かず、そいつは現実世界で不治の病を患ったらしい。今頃もう死んじまってるだろうな」
「あぁ」と再びメリノの体から力が抜けてしまう。「そ、そうなんですね」
「でもよ」と今度はアルガリが身を乗り出してきた。「本来は存在しなかったはずの人間が、その世界に存在できたんだ。こんなに凄いことはねぇだろ」
確かに、とメリノは素直に感じた。
「だからそいつの、世界を変えるほどの奇跡の魔法、『世界の心臓』を、海賊の連中は喉から手が出るほど欲しがってんだ」
「世界の心臓」
「今もこの海のどこかに眠ってるって噂だ」匙でスープを口に運び、アルガリは言葉を続けた。「機関長は、その伝説に縋ってんだよ。ムーア副長を甦らせたい一心でな」
「よみがえらせる」思わずメリノは目を見開く。「そんなこと、できるんですか」
「できてたまるかよ。人間は皆、命はひとつ。儚いもんだ」
「それじゃあ、あんまりですよ」頭の中の言葉が思わず、次々と声に出る。
「この世界で生まれた人は、この世界に縛られて生きてる。そんなの、あまりに、かわいそうだ」
するとアルガリは腹を抱え、高笑いを上げた。突然のことに、メリノは再び怯む。
「かわいそうって言われたのは初めてだなぁ」
そう言って、アルガリは彼自身の胸に指を突き立てた。少しずつ、その言葉の意味を解したメリノは、言葉を失った。
「三途の川にしちゃ、ここは広すぎるよ」
優しく微笑むその表情を、メリノはただ見つめることしかできない。彼もまた、帰ることができない人なのだ。

海底火山は奇妙な静寂を迎えていた。まるで嵐がやってくるのを待つような、不気味な静寂だった。生ぬるい。紅の荒武者と呼ばれるその男は舌打ちした。こんなものか、夢の世界ってのは。大したことがない、と落胆に似た感情を抱く。

現実世界でも喧嘩に明け暮れてきた。誰かの恨みや怒りを買えば気が済むまで己の強さを見せつけた。誰も関わってこない退屈な日は、己から喧嘩を仕掛けた。そして周りの人間の誰もが己に敵わないと分かると足並みを揃えて逃げていった。弱い奴に用はない。ただ強い奴と闘いたい。その精神だけで今日まで生きてきた。その精神が、己をこの夢の世界へ誘った。

「良い景色だなぁ」

ふいに声がして、荒武者は眉を顰めた。誰だ。気配はなかった。いつの間に背後を取られた。

「青にほんのりと赤が混じって、美しい紅紫だ」ゆるりと振り返ると、そこにいたのは最近対峙した眼帯の男だった。「でもまぁ俺様は、やっぱりいつもの色の方が好きかな」

潜水艦ひつじとやらのキャプテン。以前から風の噂に聞くが、この男は本当に強いのか。あれほど己を挑発しておいて、もしも拍子抜けさせるようなら、ただでは済まさない。

「よぉ、キャプテン。今日こそ俺と闘えるなぁ」

「ま、半分は男の約束だからね」眼帯の男は苦笑する。「もう半分は、お仕事だから」

「仕事」

「うん。世界を救うお仕事」

「それはそれは、大層なこった」

「君の強さは計り知れない。何しろ、この海底火山は君のエネルギーで目覚めたんだから」

そうかよ、と肩に負っていた大筒を掴み、キャプテンに向けて構える。刹那、空いていたはずの間合いは埋まり、キャプテンはその大筒を掴んでいる。疾い。

「まだ喋ってる途中じゃないか」眼帯の男は、にんまりと微笑む。「そう慌てないで」

「ダラダラ口を動かすのは嫌いなんだよ」

「君のその強さを欲しがってる連中がいるんだ。彼らは君を仲間に引き込もうと、今も君をじっと見ている」

「それがどうした。仲間なんていらねぇよ」

「彼らは強引だからね。一応、俺たちが倒さなきゃならない相手だから、君を引き取られると困るんだ」

思わず鼻で笑い「その前に、俺たちの仲間になれってか」と嘲る。しかし物腰柔らかな男の返答は、ふいに、冷たく凍てついたものに変わった。

「いいや。君には、消えてもらいたい」

 

 

間違いない。あの男だ。ヘブリジアンは思わず唇を噛み、望遠鏡を投げ捨てた。紅の荒武者と闘いをはじめたあの男は、紛れもなく潜水艦ひつじのキャプテン。此処で遭ったが百年目。この剣で斬り刻んでやろう。主君から与えられた蒼色の装束を羽織り、ヘブリジアンは海賊船の高見台から飛び降りた。命令を待つ必要はない。距離は五百歩ほどだ。斬り込もう。足を踏み出したその時、エネルギー砲の銃声がした。咄嗟に身を翻し、音波ビームをひらりと避ける。

「驚いたなぁ」飄々とした声が響き渡る。岩陰に何者かが身を潜めているようだ。「そいつはクラーケンの牙じゃないか」

クラーケンの牙、と聞き慣れない言葉をヘブリジアンは思わず小さく復唱する。僕が握る、この剣の名前か。

「そんな名剣を持ってるなんて、お嬢さん何者っすか」

「僕は、女を棄てた身だ。お嬢さんと気安く呼ぶな」

「こりゃ失敬」と男が陰からひょい、と姿を見せた。「おいらはアルガリ航海士。よろしく」

なるほど、潜水艦ひつじの下っ端か。ヘブリジアンは短く溜息を吐き、改めて剣の柄を握り直す。

「僕一人を足止めしたところで、海賊は他にもいるよ」

「そんなことは百も承知」アルガリの言動はふわふわとしていて摑みどころがない。しかしその眼光は彼の主将に似たものを感じる。「でも、こっちも独りじゃないんすよ」

ふいに背後から何者かが腰に抱きついてきた。ぎょっ、と振り払おうとするが、ぴたりと背中に張り付いたその少年を引き剥がすことができない。

「よくやった、新入り」アルガリが愉快そうに手を叩く。「そのまま捕まえとけ」

先輩の言葉に、少年は快活に返事をする。身動きできない。あと少しであのキャプテンを痛い目に遭わせられるのに。

「どいつもこいつも」ヘブリジアンの額にいよいよ青筋が立った。「刺身になりたいのかい」

 

 

どうやら狼煙は上がったようだ。作戦開始。ナイト副長はユメクラゲの鎧で身を隠しながら、船の奥へと進んでゆく。無人の廊下には悍ましい気配が漂っている。壁や床は蠢き、前に進むたびに蟲に噛みつかれているような痛みが伴い、海の底に散り積もった残骸や塵の山を機械の油で練り固めたような不快感が襲う。もはや五感はまともに機能していない。海賊船の内部にまで潜入するのは初めてだが、どうやらロメルデールの仮説は正しかったようだ。この船は生きている。バクと命を共有しているのだ。そして今、私の存在を拒絶している。

「これはこれは、珍しい客だ」聞き慣れた声。何度聞いても、身の毛もよだつ冷たい声だ。「ようこそ、ナイト副長」

「さすがですね」ナイトは挑発するように微笑む。「私の姿が見えるんですか、セントクロイ」

「ユメクラゲの鎧は、反射する光の加減によって身につけた者の姿を透明に変えて包み隠す。だが頭隠して尻隠さず。相変わらず気配を消すのが苦手なようだ」

「随分と饒舌ですね」振り返ると、道化師のような出で立ちの見慣れた海賊副長の姿があった。「私に会えて、そんなに嬉しいですか」

「嬉しいとも。お互い、自らの主君を愛する者ではないか」

ナイトの眉間に皺が寄る。キャプテンを、あの怪物と同じような言い方をするな。ぎり、と歯を鳴らして腰から二丁銃を抜いて構える。

「生憎ですが、呑気に世間話するつもりはありません」

「それは残念だ」セントクロイの頬が歪む。「ゆるりと話をさせたい者もいるというのに」

誰だそれは、とナイトが訝しんだその直後、電流が走るような衝撃音が響き渡る。途端に身体は金縛りのように一切の身動きを取れなくなった。何だこれは、とナイトが目を必死に泳がせて状況を把握すると、セントクロイの目の前に、まるでセントクロイを護るように、一人の女が降り立った。

「嘘」と思わずナイトは呟いた。紫色の装束に身を包み、顔の半分は隠されているが、その姿は間違いなく、彼女がかつて憧れた人物だった。「ムーア副長」

 

 

「その手を離しなさい」

突然の声にメリノは思わず振り向いた。そこにいたのは、艦内で待機しているはずのロメルデール機関長だった。

「おい」アルガリも戸惑っているようだ。「ここで何してんだよ」

「聞こえませんでしたか、少年」ロメルデールは淡々とメリノに言葉をかける。「私の同胞から手を離せ。そう言っているんです」

同胞。何を言っているんだ、この人は。メリノは焦燥した。あなたは僕らの、キャプテンたちの仲間じゃないのか。思考を巡らせた直後、捕らえた蒼色の女の肘に頬を殴られた。しまった、と思った時には既に、彼女はロメルデールの隣に立っていた。見ると、彼は首元に緑色のスカーフを巻いている。まるでその蒼色の女の仲間のように。

「なんで、どうして」思わずメリノは呟く。

「見損なったよ」アルガリは迷いなく親友に向けて銃を構えた。「そこまで馬鹿だったなんてな」

ロメルデールは何も応えず、ただじっと彼を見つめている。

「アルガリさん」メリノは狼狽したまま声を発する。「一体どういうことですか」

「どうもこうもねぇよ。寝返ったんだ。こいつ、海賊に寝返りやがった」

「寝返ったなんて人聞きが悪い」と女が割って入る。「僕は、最初からこの男も仲間だと聞いてたよ」

「いつからだ、ロメルデール。いつからスパイになった」

「決まっているでしょう」ようやくロメルデールが言葉を返す。「ムーアが、彼女が死んでからですよ」

「あの人を甦らせるためか。その力欲しさに怪物に魂を売ったのか」

「やれやれ、積もる話もあるだろうね」ふいに傍らの女が微笑む。「僕は先に行くよ」

蒼色の装束を揺らし、足早に彼女はその場を離れる。向かうはキャプテンと紅の荒武者が争う噴火口だ。

「追え、新入り」アルガリがメリノに言う。その眼差しは今日まで見せてきたものとは違う色を放っていた。「こいつは、おいらが懲らしめる」

 

 

紅の荒武者は歯を食いしばり、重い一撃を大筒で受け止める。キャプテンは余裕の表情を見せながら軽々と足場を変え、その剣で何度もこちらを追いつめてくる。侮っていた。この男、過去に闘ってきた者と較べても、圧倒的に強い。だが荒武者に焦燥感はなく、むしろ高揚していた。嗚呼、ぶっ壊したい。この男になら俺の全力をぶつけても構わないんだ。

「強いね、君は」とキャプテンがふいに言葉をかけてくる。

「お世辞かよ。そのまま返してやる」

「本心さ。彼らが君を連れていこうと考えてるのも頷ける。きっと素晴らしい戦士になるに違いない」

「あんたはどうなんだよ。俺が欲しくないのか」

「欲しいよ」キャプテンの返答は、素直だった。「でも今の君を、仲間に入れることはできない」

「そりゃそうだ」荒武者は嘲笑う。「正義の味方様だよ」

「違うさ」キャプテンも微笑んだ。「今の君には、まだ早いんだ」

荒武者の眉間に皺が寄る。その言葉はつまり、俺が未熟だという意味か。苛立ちは全身へと伝わり、無意識に拳がキャプテンの顔面目掛けて繰り出される。が、彼はそれを躱して言う。

「そうやってすぐに怒るところも、あの人にそっくりだ」

荒武者は鼻息を荒げ、心を落ち着かせようと必死になりながら彼を睨みつけた。「昔話に付き合うつもりはねぇよ」

「褒めてるんだよ。君はその人のような強さを持ってる」

俺のような強さ。仄かに、興味が湧く。俺やこの男以外にも、強者がいるというのか。荒武者の顔が僅かに明るみを取り戻す。そいつは、いったい誰だ。

「彼の名は、ザルトブレス」と満面の笑みでキャプテンが言う。「俺様の師匠だ」

直後、巨大な轟音が響き渡り、キャプテンの背後から火焔の柱が上がった。まるで何らかのエネルギーに吸い寄せられるように立ち昇った炎の中に、確かに人影が見えた。あれは誰だ。

「久しいな、キャプテン」呟くような低い声が、地面を震わすほどに轟く。「左眼の傷はまだ痛むか」

「思ったより早い御登場だなぁ」キャプテンも思わず苦笑を浮かべる。「バク船長殿」

 

 

セントクロイは歓喜と悶絶の声を上げた。嗚呼。バク様が、闇の外へと出ていかれた。あの方が光あるところにお姿を見せるのは何十年振りだろうか。こうしてはいられない。「セントクロイ」背後で捕らわれたナイト副長が叫ぶのが聞こえる。だが相手をしている場合ではない。バク様の剣として、バク様の盾として私が支えて差し上げなければ。たん、と床を踏み、精神を集中させながら宙に返る。足が地に着く頃には、既に船から三百歩離れた地点に立っていた。バク様にご指導いただいた瞬間移動の技もここまで磨きがかかった。これほど動ける者は私か、或いはあの忌まわしきキャプテンくらいの者だ。眼前には偉大なる海賊バクが暴れているのであろう激しく気の乱れた光景が広がっている。

「いま向かいます、バク様」

うっとりとその光景を見つめながら、愛を囁くようにセントクロイが言葉を零した直後、どこからともなく、彼女の行く手を遮る者が現れた。

「行かせないわよ」割烹着を羽織ったその女は鋭い眼差しでこちらを見つめる。「久し振りね、セントクロイ」

「これはこれは」とセントクロイが言いかけると同時に、果たしてどこに隠し、そしていつの間に抜き構えたのか、女の剣の鋒が喉に触れた。見るともう一方の腕にも剣を携えている。二刀流か、さすがに分が悪い。

「腕は落ちていないようだな、マクーラ料理長」セントクロイは笑みを浮かべ、否、と撤回する。「潜水艦ひつじ初代副長、マクーラ」

 

 

「なぁ、ロメルデール」剣を交えながら、アルガリが言った。「出会ったばかりの頃を覚えてるか」

ロメルデールが眉を顰め、剣を突き返して間合いを取る。

「お前は相当ひねくれてたよな。いつも自分が正しい、自分の言うことを聞けってさ」

「実際、あなたは間違えてばかりだったでしょう」

「何度も喧嘩して、最後に折れて謝るのは、いつもおいらの方だったよな

「今更、何の話ですか」

「ただ一度だけ。お前の方から仲直りしたことがあったんだ。その時のこと覚えてるか」

こちらの感情を惑わすつもりか。ロメルデールはぐっと踏み込み、次の一撃を入れるが、アルガリはそれを躱す。

「おいらがユメクジラに喰われそうになった時だよ。お前は喧嘩して腹立ってたはずなのに、慌てて誰よりも早く駆けつけた」

ロメルデールは必死に思考を止める。この男の言葉に耳を傾けてはいけない。誘惑されてはいけない。私はもう後には退けない。ムーアのため、この身をバク様に捧げると誓ったのだ。

「昨日の敵は今日の友。お前はその時そう言った」アルガリが、微笑んだ。「後にも先にも、お前がおいらを『友』って言ったのは、その時だけだったな」

「やめろ」思わず叫ぶ。昔からこの男はそうだ。黙っておけば、ぺらぺらとよく喋る。「あなたのそういうところが嫌いでした」

「あぁ」アルガリは歯を見せて笑い、剣を構える。「おいらも、お前なんか大嫌いさ」

 


メリノは懸命に走った。ひたすら走ったが、それでも彼女に追いつくことができない。蒼色の装束を纏った海賊は徐々に遠く、小さな影となり、離れていく。駄目だ。間に合わない。メリノの身体は限界だった。何をしているんだ、僕は。ここは夢の世界じゃないか。もっと速く走ることができる。もっと強くなることができる。なのに、どうして、今の僕には何が足りないというのだろう。誰も止められない。誰も護ることができない。この世界ですら、僕は役立たずじゃないか。膝をつき、地面へと崩れ落ちてゆく。もう走れない。もう動けない。そう思った次の瞬間、メリノの背中を何かが掠めた。身体が宙に浮き、そのまま歩みたかった方へと背中を押されていく。メリノは眼前の光景に、思わず見惚れた。色とりどりの魚の大群が、あの火山に向けて突き進んでいる。ユメガツオ、ユメイワシ、ユメマグロ、ユメエビ、ユメガメ、ユメウツボ、ユメクラゲ、そしてユメクジラまでこの夢海原に生きる幾千の群れが蜂起したようにあの火山へと立ち向かってゆくのだ。海賊たちを倒すため力を貸してくれるのか。それとも、或いは、もうひとつの闘いが近くで起こっているのだろうか。

 

 

ナイト副長は唇を噛み締め、微動だにしない自身の身体を必死に揺らしてみるが効果はまるでない。それどころか抵抗すればするほど痺れるような激痛が全身を襲う。目の前の、このムーア副長のエネルギーだろうか。こちらに突き出している両手の掌の先から何らかの強力なエネルギーが放出されているのか。

「まさか」ナイトは痛みを堪えながら口を動かす。「まさか、こんな形で会うなんて」

彼女は一言も返さない。こちらの言葉が通じないようにされているのか、或いは手に入れた能力と引き換えに声を失ってしまったのかもしれない。だとしたら、もはや私にここから逃れる術はない。このまま首を掻かれたら、そこで終わりだ。どうやら今度こそ、私の闘いも終わりを迎えたらしい。覚悟を決めなければいけない。キャプテンも戦っている今、あの時のようにもう誰かの救いは望めないだろう。ならば最後に、逝く前にせめて彼女には伝えなければならない。

「ムーア副長」ナイトは微笑む。「あなたが嫌いでした」

思い返すと、彼女に対して自分は劣等感しか抱いたことがなかった。その美貌と勇気、戦士としての実力、底のない優しさ。私にないものを、すべて持っていた。そして何よりも、彼女はキャプテンに『副長』として認められていた。

「副長を継いでも、あの人は未だに私のことを『ナイトちゃん』って呼びます。そうやって、いつまでも私は子供扱い。だからあなたが恨めしかった。あなたのことが羨ましかった」

次から次へと溢れ出る言葉を余すことなくムーアにぶつける。ナイトは思わず涙の粒を零し、動揺した。違う。こんなことを言いたいんじゃない。言わなければならないことは、ひとつだ。

「ムーア副長。あなたが嫌いです」ナイトは精一杯に微笑む。「そして、ずっと尊敬してます」

直後、強烈な光で視界が真っ白になり、再び目を開けると、彼女の姿は闇へと消えた。身体も本来の機能を取り戻し、自由に動けるようになっている。一体どうしたのだろうか、と辺りを見回し、床に落ちた自分の武器を拾う。二丁銃。ナイトはその銃を大事に握り締めた。かつてムーアが副長だった頃に使われていたその銃は、いつもの重みが消え、かすかな温もりがあった。もしかしたら、とナイトは思う。もしかしたら、彼女の心も甦っているのかもしれない。

 

 

刃の軋む音が耳に衝く。マクーラは息を整え、セントクロイの頭上目掛けて次の一閃を振り下ろす。セントクロイもまた嗤いながらその峰へと足を乗せ、蹴りを入れてくるのを刃で食い止める。相変わらず、この女の強さは計り知れない。隙もなければ斬れる身体ですらない。彼女の肌は鉄のように硬く、その拳は鋭い刃と同等の威力を誇る。さすがに海賊バクに最も近い女王。その肉体はとうの昔に人間であることを辞めている。もしや例え腹を掻っ捌いたとしても、そこには内臓すらないのではないだろうか。

「愉しませてくれるのは有難いが」セントクロイが首を鳴らしてみせる。「私は先を急ぐ。この古参同士の試合は持ち越すとしよう」

「そうはいかないよ。ここで串刺しにして、あの火山で炙ってあげるわ」

「やれるものなら、やってみるがいい」

セントクロイの言葉の直後、彼女が飛びかかってくる。剣で彈き、剣で突く。と思いきや突き出した方の剣は罅が入り、そのままポロポロと破片が散り、最後には完全に砕けた。見ると盾にした剣の方も跡形もない。地面に落ちた、かつて刃だった欠片が砂に埋もれ、消えていく。振り返るとセントクロイの姿はもうない。敗北か。否、せめてもの時間稼ぎにはなっただろうか。マクーラは最後の闘いを終えた相棒を握り締め、そして静かに砂の上へと置いた。この世界に来てからの数十年、自身に力を与え、キャプテンの背中を護り、潜水艦ひつじを支えてきた戦友の最期だ。もう二度と剣を握ることはないだろう。

「今までありがとう」

マクーラはそう言い残すと立ち上がり、仲間の元へと走り去った。


「やばいな、あれは」アルガリが舌打ちする。
「バクのエネルギーの影響で火山の活動が早くなってる。このままだと、ここら一帯が火の海だぜ」
ロメルデールもまた火山の方へと視線を向けた。水平線の果てはもはや赤一色に染まり、焼け焦げた匂いと熱気がここまで達している。過去の噴火の比でないのは目に見えて分かるが、もはや止める術はない。
「ロメルデール」アルガリが剣を納める。「ここは一時休戦といこう」
「キャプテンを助けに行くつもりですか」
「あの人たちなら大丈夫さ。ただ新入りがちょいと心配でね」
「今の私は海賊です。手を貸すことはできません」
「馬鹿か、お前。せっかく甦らせたムーアさんをまた死なせる気か」
ぐっと喉まで出かけた言葉を呑み込み、ロメルデールも剣を納める。
「喧嘩の続きは、またいずれ」
 
 
まるで世界の終わりを見ているようだ。ヘブリジアンは愕然としていた。眼前に広がる深紅の光景は徐々にこちらまで侵蝕してきている。恐ろしさも確かにあったが、同時に美しいとすら感じた。終末とはこれほどに不気味な美しさを纏うのか。
「臆したか、ヘブリジアン」背後からセントクロイの声がした。「あれこそが、バク様の御力。もはや誰にも止められない」
ヘブリジアンはただ彼女に背中を預け、その始終を見守ることしかできなかった。
「よく見ておけ。この世界の安穏は今日、この日に終わる」
 
 
勢いよく吹き飛ばされた身体が、宙を返る。荒武者は目を疑った。先ほどまで余裕を見せていた、あのキャプテンが劣勢だ。視線を前に戻すと、脅威を絵に描いたような、怪物がそこに立っていた。剥き出しの鋭利な骨に炎を纏い、口元には鮫に劣らぬ数の牙が並び、指先にはナイフを揃えたような爪が生えている。僅かな吐息が大気を震わせ、鋭い眼光は視線の合ったものを震え上がらせる。これが海賊バク。かつて経験したことのない感情が込み上げてくる。ようやく巡り会った。俺は、この強さを求めていたのかもしれない。
「手厳しいなぁ、バクさんよぉ」体勢を整えたキャプテンが不敵な笑みを浮かべる。「俺に逢えて、そんなに嬉しいかい」
「喜ばしいとも」バクが応える。「漸く、貴様の息の根を止められる」
その時、一発の波動がバクの脳天を貫く。バクからすれば蚊に刺されるほどの攻撃かもしれないが、奴の注意はそちらへと向いた。見上げると、男女がふたり降りてくる。ひとりは怯えきった如何にも弱そうな少年だが、もうひとりは荒武者も見覚えがあった。名前も覚えている。ナイト副長だ。
「キャプテン」地面まで降り立つと、彼らはバクからの圧を受けながらも必死にこちらに向かってくる。
「ナイトちゃん、メリノ君」上官もまた二人に呼びかける。「俺様は大丈夫だ。君たちは火山を頼む」
何をするつもりだ。荒武者は思わず戸惑う。こんな非力な奴らがどうやって噴火を鎮められるというのだ。そう思いを巡らせた直後、巨大な影が視界を遮った。今度は何だ、と見上げると鯨ほどの巨躯を持つ船が噴火口の真上から、この地上まで波動を降り注いでいる。炎の勢いが僅かながら少しずつそのエネルギーによって押し返されてゆく。荒武者は確信した。初めて目にしたが、あの船か。この夢海原を護る、潜水艦ひつじとは。
 
 
潜水艦ひつじ尾翼、第三機関室。
「エネルギーの調子はどうだい、機関長殿」
アルガリは背後で船を操作する親友に景気良く声をかけた。
「私はもう、この船の機関長ではありません」
「細かいことはいいだろ、堅物」アルガリが笑う。「この船を去るなら、この大仕事終わらせてからにしろよ」
それから、とアルガリが唐突に投げ渡してきた物を慌てて受け取る。お前にやるよ、と彼は再び前を向いた。包み布を剥がすと見慣れた算盤だった。航海士である彼が、いつも愛用してきた算盤。突然のことに、ロメルデールは訝しむ。
「ユメガメの甲羅で作られてるんだ。かなり頑丈だから武器としても使えるぜ」
使いませんよ、と言いかけた直後に、ロメルデールは、徐々に込み上げてきた嫌な予感の正体に気づいた。
「まさか、餞別のつもりですか」彼の背中を睨みつけ、言う。「私を、引き止めないんですか」
「何だよ急に」きょとんとしながら、アルガリが振り向く。
「あなたは、私を引き止めたいのでは」
「そんな野暮するかよ。俺は『懲らしめたい』としか言ってねぇだろ」
しかし、とロメルデールが続けて言葉を返そうとした時、巨大な轟音と共に船体が大きく揺れた。床に崩れた体勢を手探りで戻しながら、アルガリが続ける。
「もう決めたんだろうが。だったら振り返るなよ。お前はそういう男じゃねぇか」
「裏切ったんだぞ」ロメルデールは思わず怒鳴る。「お前たち仲間を、私は裏切ったんだぞ」
「あぁ、絶対許さねぇよ。二度と帰ってくんじゃねぇ」アルガリが最後にもう一度、振り向く。
「帰ってくる時があるとしたら、それは、お前が世界を救う時だな」
直後、瞬間移動によってナイト副長がメリノを連れて現れる。ふたりともかなり疲弊しているようだ。
「良いタイミングっすね、副長」すかさずアルガリが声をかける。「その馬鹿を頼みます」
ナイトはそっと頷き、ロメルデールの身体を捕まえる。よせ。やめろ。その手を払いのけ、アルガリに向かって叫ぶ。
「駄目だ、アルガリ。お前は死んだら駄目だ」
「アルガリさん」とメリノも戸惑って声が震えている。
「新入り。乗組員として、最初の仕事だ」振り返ることなく彼は言葉を返す。「この船から、第三機関室を切り離せ」
 
 
身体が重い。足を引きずり、垂れた腕を支える。キャプテンは力なく笑った。いよいよ限界かもしれない。
「おい」荒武者が声をかけてくる。「まだ挑むのかよ」
「挑むさ。ここで俺様が諦めるわけにはいかないだろう」
「キャプテン」背後から声がする。マクーラ料理長だ。彼女の声を聞くと心なしか安堵する。
「アルちゃんが、あの作戦に切り替えたわ」マクーラは言う。「もう充分よ。逃げましょう」
「駄目だ」思わず怒鳴る。「彼が覚悟を決めたなら、なおさら俺も退くわけにはいかない」
潜水艦ひつじの機動力のひとつとして莫大なエネルギーの格納庫となっている第三機関室。これを火山の噴火口にぶつけてしまえば相殺によって完全に鎮圧することが理論上可能だ。しかしこれを実行するには機関室の内側から誰かがエネルギーの操作を続けなければならない。そして、この作戦を提案してきたアルガリ航海士が自ら、その役を引き受けた。
「キャプテン」マクーラの声が、少し弱くなる。「今朝、『彼女』に『お別れ』してきたんでしょう」
思わず剣を握る手が緩む。キャプテンは苦笑を浮かべ、そっと振り返った。マクーラは涙を堪えながら、こちらを静かに見守っていた。
「あなたも、今日からはもう『帰る』ことができないのよ」
そうだ。キャプテンは自らに言い聞かせる。ここで俺が諦めたら夢海原はどうなる。世界はどうなる。『彼女』はどうなる。
「だからこそさ」キャプテンは高らかに言う。「だからこそ、ここでバクを倒す。これが決着だ」
前へと視線を戻す。こちらを見てバクが嗤っている。剣を構え直し、最後の一撃へと突き進む。
 
 
「できません」メリノは必死に首を横に振る。「アルガリさんを置いていけません」
「これは命令だよ、新入り」アルガリは背を向けたまま言う。「ナイト副長、頼みます」
その言葉を受け、ナイトがメリノの肩も掴んだ。
「どうして」メリノは頑なに拒む。「どうして、彼が死ななければいけないんですか」
「この船のエネルギー操作に慣れてるのは俺か、そこの機関長だ」
「だったら私がやる」すかさずロメルデールが言う。
「それは俺が許さねぇよ。お前にはもう守らなきゃいけねぇ奴がいるじゃねぇか」
「やめろ、そんな言葉を聞きたくはない」ロメルデールの声は悲痛に苦しんでいた。「お前とは、まだ、喧嘩の途中じゃないか」
「そういえば、そうだったな」とアルガリは微笑んでみせる。
「いいじゃねぇか。最後の喧嘩に、勝ち負けはいらねぇよ」
メリノはしきりに首を横に振る。いやだ。彼がいなくなったらいけない。彼を失ってはいけない。
「そんな顔するなよ、メリノ」アルガリが初めて、新入りの名を呼んだ。
「おいらとお前で、この世界を救えるんだ。最高じゃないか」
そう言って彼はメリノの頭をそっと撫でた。
「大丈夫だって。またいつか、どこかで逢えるさ」
アルガリはそう言って、彼の武器を、彼がいつも携えていた銃をメリノの手に渡す。ずしん、と大きく機関室が揺れる。船体を再び衝撃波が襲いかかった。刻限が迫っている。ナイトは覚悟を決め、ロメルデールとメリノの肩を掴み直す。
「メリノ」ナイトが声をかける。「切り離して」
ぐっと唇を噛み締め、今にも溢れ出そうな涙を堪え、メリノはアルガリに教わったとおりに言霊をかけた。
「潜水艦ひつじ、第三機関室、接続解除」
同時にナイトに引き寄せられ、そのまま空間が波打つように歪んでゆき、瞬間移動が始まる。
「笑おう」刹那、アルガリが微笑むのが、見えた。「もっと笑おう」
直後、第三機関室が、赤い閃光に包み込まれた。
 
 
手応えはあった。確かに奴の心臓を貫いた。見上げるとバクの身体は見たことのない色の光を発し、粉々に砕けてゆく。耳を劈くような呻き声と共にバクの身体は畝り、やがて四散する。荒武者は息を呑む。勝ちやがった。こいつの細い剣が、あのバクの核まで届きやがった。キャプテンは安堵と達成感に満たされたようにそのまま、その場に倒れた。慌ててマクーラ料理長とやらが駆け寄る。恐ろしい男だ。荒武者は思わず鼻を鳴らす。何が怪物だ。こいつの方が、よっぽど人間を棄てているじゃないか。その並外れた精神はどこから生まれるというのだ。研ぎ澄まされた力は何のためにあるというのだ。
「荒武者くん」ふいにキャプテンが言葉をかけてきた。「助太刀、感謝するよ」
何のことやら、と荒武者がとぼけようとするとキャプテンは言葉を続けた。
「最後の一撃を入れた瞬間、手応えはなかった。俺一人の力じゃ奴の傷は浅かった」彼は穏やかに微笑み、言う。「君だろ。俺と同時にエネルギーを叩きつけてくれたのは」
知らねぇな、と荒武者は大筒から仄かに出ている硝煙を払う。
「俺を消すんじゃなかったのかよ」そう言って、倒れたままのキャプテンの顔を覗き込む。「そうでなくとも捕まえなくていいのか」
傍らのマクーラがキャプテンを護るように彼の身を引き寄せて、こちらを睨みつけてくる。なるほど、この女もかなりの手練のようだ。
「その必要はないよ」キャプテンは言う。「噴火の原因はバクだ。俺にはもう、君と闘う理由はない」
「そうかよ」荒武者は呟く。「だったら行かせてもらうぜ」
踏みしめた地面は火山から降り注いだ灰が積もり、息苦しい空気がまだ微かに残っている。
「俺は、あんたを必ず倒す」荒武者は言う。「今よりもっと力をつけて、強くなって、またあんたに勝負を挑んでやる」
「あぁ」落ち着いた優しい声が返ってくる。「楽しみにしてるよ」
立ち去る前にもう一度だけ振り返ると、彼の眼帯の隙間から小さな水の粒が伝うのが見えた。
 
 
バク様が、敗北した。セントクロイは、かつてないほどの絶望の淵に立たされていた。ありえない。あのバク様が負けるわけがない。否、とセントクロイは頭を抱えた。落ち着いて考えろ。バク様の魂はまだ生きている。この夢海原をさまよっておられる。ならば私にできることは何だ。私にできることは。そこまで思考を巡らせた果てに、唐突にセントクロイは大きく高笑いを上げた。その声に、傷を癒やしていたヘブリジアンが驚く。
「世界の心臓だ」セントクロイの狂気に満ちた目が、ぐるりと天を仰ぐ。「あれさえあれば、バク様に敵はない」
「何を言い出すかと思えば」ヘブリジアンが呆れたように言う。「そんなもの、ただの伝説だとあの男は言ってたよ」
「聞き捨てならないな。お前は敵の大将の言葉を信じるというのか」
セントクロイの言葉に、ヘブリジアンは立ち上がった。「あいつは僕に嘘をついた。そう言いたいのかい」
良い反応だ、とセントクロイは素直に感心した。この小娘、どうやら相当あのキャプテンに可愛がられたようだ。だが確かに、とセントクロイは思い返す。何しろ、かの英雄が遺した聖剣『クラーケンの牙』を託され、あまつさえその名も与えられているのだ。かつて夢海原を生んだ、かの英雄『ヘブリジアン』の名を。
「昔から女を惚れさせ、誑しこむのが得意な男です」と闇の奥からもう一人、低い声が聞こえる。「あまり未練がましいと見苦しいですよ」
「未練だと」ヘブリジアンが刀を抜いて闇へと斬りかかり、その鋩をセントクロイの指先が受け止めた。
「バク様の玉座の間を、血で穢すことは私が許さない」その言葉に、ヘブリジアンはおとなしく刀を納める。
闇からゆるりと現れた男と女を見て、セントクロイは思う。嗚呼、此処にもいた。こちらもキャプテンに、かの英雄『ロメルデール』の名を与えられた男。知略を得意とすると聞いてはいるが、その名を与えられたならば戦術の腕にも見込みがあるに違いない。
「腹は決まったようだな。ようこそ、我らの世界へ」
「私にはもう、帰る場所はありません」ロメルデールは呟くように言う。「如何なる命令にも、従います」
下手な嘘を、とセントクロイは内心で嘲笑う。この男は迷っている。冷徹な顔の裏で、失くした友情を痛く悔いているのが手に取るように分かる。その迷いは、この闇の行軍においては恐ろしいほどの戦力となるだろう。
「エクスムーアと共に、すべてはバク様のために」そう言ってロメルデールは胸に手を当て、片膝をつく。
エクスムーア。誰のことだ、とセントクロイが首を傾げると、忠誠を示す彼にならうように、その隣でもうひとり、かつて敵の副長だったその女が片膝をつく。セントクロイはにたりと微笑んで「良い響きだ」と静かに言葉をかけた。そして同時に、確信した。嗚呼、こいつらは使える。こいつらの手綱を握ることに繋がったのは大きな戦果だ。どこまでも利用してやろう。今のうちに感謝しておくがいい。お前たちの感情のすべて、力のすべてを、愛するバク様に捧げてやる。
 
 
決戦から数日が経った。夢海原はかつての平穏を取り戻しつつあった。海底火山の噴火はおさまり、エネルギーによって石化した柱が、この海を支えるように立ち尽くしている。潜水艦ひつじの艦内は、以前の騒がしさを失った。乗組員が食卓を囲む時もそれは同じく、それぞれ、ただ静かに食事を口に運んでいる。その沈黙を破ったのは他ならぬキャプテンだった。
「メリノ君。これは提案なんだが、この船の、航海士になってはくれないか」
思わぬ言葉にメリノは立ち上がる。しかし直後、かつての航海士が遺していった武器を見つめ、ぐっと唇を噛みしめ、首を横に振る。
「この船の航海士は、アルガリさんです。僕は、アルガリさんにはなれません」
その言葉を聞くと、キャプテンは残念そうに眉を下げ、そうか、と微笑んだ。
「だけど」と続けてメリノは言う。「だけど、僕もいつかアルガリさんのように強い人になりたい。追いかけていたい」
その言葉に、ナイトが顔を上げた。マクーラもまた優しく見守るように、微笑んでいる。
「だから」詰まる言葉を必死に続ける。「だから機関長として、あの人を追いかけたい。そして、いつかロメルデールさんが帰ってきた時、ギャフンと言わせたいです」
まずい。最後は失言じゃないか。思わず滑りすぎた口を慌てて塞ぐメリノの頭を、キャプテンが力強く撫でた。
「よく言った。メリノ機関長」
その言葉をきっかけに、ようやく、ナイトの表情にも小さな笑みが見えた。
「これからよろしくね、メリちゃん」とマクーラ料理長がその肩に手を置く。
メリノはぎゅっと目を瞑り、また溢れそうになる涙を堪え、力強く何度も返事をした。今この瞬間、とても大きなものを背負ったのは間違いない。今になってようやく実感が湧いた。あの人の笑顔を、もう見ることはできない。それでも寂しさはない、僕らは終わってはいない。これは始まりだ。これから先どんなことがあっても、彼の分もこの船が希望を繋いでいくことだろう。今日、その一員に、僕も選ばれたのだ。
「さーて、ボヤボヤしてらんないよ」とキャプテンが椀に残ったスープをぐっと飲み干し、微笑む。「仕事だ」
笑おう、もっと笑おう。
 
 
「紅の荒武者よ」とセントクロイが奥へと声をかける。「お前にも、呼び名はあるのか」
荒武者は、はん、と鼻で笑うと腰を上げ、セントクロイに近づいてきた。すぐさま、ヘブリジアンが剣を鞘から抜こうとするが、それを制したのはセントクロイ自身。荒武者はそのまま彼女の肩から赤い布を引きちぎり、それを自身の懐へと巻き付けた。
「この色を貰うぜ。流れる鮮血と灼熱の炎。まさしく俺の色だ」そして荒武者は名乗る。「ザルトブレス。俺の名は、ザルトブレス」
その名を聞いた途端、セントクロイの頬はますます悍ましく歪んだ。
「よかろう」そう言って、四人の前に、かつてバクが腰を下ろしていた玉座の前に立つ。「ヘブリジアン、ロメルデール、エクスムーア、そしてザルトブレス」
その姿はまるで、すべてを嘲笑う道化師のようにも、すべてを奪っていく死神のようにも見える。
「出帆するぞ。狙うは、世界の心臓だ」
 
 
「面舵いっぱい」涙を振り払うように、ナイト副長は凛々しく叫ぶ。
「エンジン全開」メリノ機関長もまた、負けないように力いっぱいの声を張り上げた。
 
 
「我々がこの海を美しく、果てしなき漆黒の闇に染める」
セントクロイが指し示す方角へと、バクの頭蓋が刻まれた巨大な旗が大きく揺らめいた。
 
 
「秒読み開始。羊が一匹、羊が二匹、羊が三匹、羊が四匹、羊が五匹」
 
 
「海賊バク、出撃」
 
 
「潜水艦ひつじ、発進」